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第二弾 話す力よりも「聴く」力

音を組み合わせ

それに意味を持たせて

そのやり取りでコミュニケーションをとるのは

この地球上では我々「人間」だけである。

 

ただのコミュニケーションのみならず

「会話」ともなると

更に複雑さは増し

何億通りのやり取りがたった二人の間にも繰り広げられていく。

 

やがて

この数奇な能力があるが故に

人は何故か「苦しむ」のである。

 

この苦しみから逃れるために

人間は「コミュニケーション力」なる力に注力し始める。

そして

自分の欠点はわが子には継がせたくないと

親は子どもたちに

「コミュニケーション力」を求め始めるのだ。

親子だけでなく

教師と生徒の間にも

恋人同士の間にも

上司と部下の間にもだ。

 

このコミュニケーション力なるもので

みんながこぞって欲しがるものは

「話す能力」であり

簡単に言うと「出力」増強である。

その証拠に

昨今「第三次お笑いブーム」がきている。

テレビを付ければ

お笑い芸人が出ていないチャンネルはない。

 

キー局のバライティー番組は当然の事

NHKの情報番組も然り

 

なぜ彼らが

必要とされるのか。

 

面白い観点から生み出される

感情を刺激する「出力」を求めているからに他ならない。

 

ああいう出力があれば

いつでも人から必要とされるのに…。

そんな根本的な欲求が垣間見れるのである。

 

しかし。

本当に「出力」は必要な能力なんだろうか。

 

長いこと

人の苦しみに向き合い仕事をしていると

その「ストレス源」に向き合わざるを得ない。

そして

様々なストレス源にもある共通の風というか

雰囲気が見えてくるのだ。

 

それは

間違いなく「出力」が原因で

人と人とはいがみ合う

ということだ。

 

キャッチボールを例にあげる。

キャッチボールを成立させるには

二つの力が必要となる。

 

「投げる能力」と「球を受け取る能力」である。

 

この二つの能力を俯瞰してみる時。

あることに気付くのだ。

「投げることは誰でもできる」

ということだ。

例えば

石を投げることはまだ自足歩行が出来ない

乳飲み子だってできる。

ブロックを投げてみたり

口からものを取り出して放り投げてみたり。

目標物に向かって

適性の距離とスピードで投げる能力まではなくとも

「投げる」ことは誰でもできるし

ある意味「一人でも」できる。

 

川に向かって?海に向かって?

「バカヤロー!」なんて叫んで投げることはできる。

 

しかしだ。

受け止めることはどうだろうか。

 

生後9か月の乳飲み子は

ブロックを投げることは出来ても

投げられたぬいぐるみを受け止めることは難しい。

 

更に

誰かに投げてもらいながら練習しなければ

キャッチする能力は向上しやしない。

 

相手がいて成立するのは

「受け止める能力」の方である。

そんでもって

投げる事だけを強化しても

相手が投げる球を受け取る能力がなければ

当たって痛い目にあうだろうし

結果怪我をするだろうし

ゲームという状況下においては

「まったく役に立たない」のだ。

 

これは「コミュニケーション力」に関しても

同じことが言える。

 

他人の話をちゃんと聴く。

自分の考え方とは違っても受け入れる。

 

当たり前すぎて

鍛えねばならない能力だとは気づかれないが

実は

全くトレーニングされずに

キャッチボールをしているに過ぎないのである。

 

ほとんどの人間が

キャッチする能力が低いまま

相手の投げてくる「言葉」を受け止め続けているってことだ。

 

更に

この能力が向上していないのにもかかわらず

「投げる能力」だけは推奨され続け

出来ないことに対する反作用で

「秀逸な出力」に対して羨望していくのだ。

 

傷つくはずである。

上手くいかないはずである。

更に

心が崩壊するまで「投げ続ける」はずである。

 

「聞く」は「耳」しか表現されていない。

「聴く」は「耳」と「目」と「心」で表現されている。

 

進化し続けてきた人類にとって

今一番トレーニングが必要不可欠な能力は

この「聴く」という「入力」であるのではないか。

 

サムガクでは

「出力」を鍛える前に「入力」に注目している。

ありとあらゆる事柄を

「受け止める能力」を自然に身に着けられるよう

戦略的に支援プログラムが構築されている。

 

この力が向上していることを実感する生徒たちは少ないが

その証拠として

入学当初。一言も出力できなかった生徒が

全員の前で長い時間とりとめもない話を題材にした演説が出来るようになるのである。

それも

ただだらだら話をするのではなく

人を笑わせることの出来る「出力」として発揮するのだ。

 

つまり。

出力など鍛える必要はない。

必要なことは

その時々に人は自然と投げてしまうものだから。

 

大切なのは

いつ何時投げられるかもしれない

その出力を

いつ何時でも怪我せずに受け止められる力なのではないだろうか。

 

この「入力」が高い人間は

決してココロ折れることはない。

そして

人を傷つけることもなければ

争いの原因になることはない。

 

人が人を殺める究極的な悪事も

つまるところ忌むべき戦争であっても

始まりは「入力不足出力過多」なんではなかろうか。

 

あなたはどちらの力が強いですかね?

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