「赤い糸でつながっている」
永遠の愛と生涯の伴侶となることを誓いあう人同士は
この「赤い糸」でそもそも繋がっていたんだと
ロマンチックに語られることは多い。
しかしながら
今や日本における離婚率は35.4%
(厚生労働省が『人口動態統計の年間推計』2015年1月1日発表)であり
結婚した三組のうち一組が離婚している計算になる。
先進国における離婚率ランキングで第6位。
それが高いのが低いのかは国ごとの文化の相違があるので一概にこうだとは断定できないが日本において
「お見合い結婚」が主流だった戦前戦後の文化風潮の頃と比べても「永遠」は幻になりつつある。
一度は愛し合った二人が繋がっていた?であろうその糸を切ってしまうのは何故か。
必要だとは思わないが
時に※マスメディアは(※緊急性の高いニュースがないってことであり、ある意味平和な時間だってこと)
その糸が切れる現象を面白可笑しく取り上げる。
勿論対象となるのは有名人たちである。その際によく使われる文言が
「性格の不一致」「価値観の相違」。
(離婚理由35.5%の1位は「性格の不一致」17.8%の2位は「夫の不貞行為」
11.2%の3位は「経済的理由」 離婚する女性の慰謝料の実態 – VIM株式会社)
うーむ。
性格が一致することなどあり得るのだろうか。
自分が二人いたら某は息苦しくなる。
価値観が一致することなどあるのだろうか。
見え方も聞こえ方も千差万別。多少のずれは間違いなく生ずるはず。
そもそも赤の他人同士が惹かれあうプロセスには
「違い」が大きな要素を孕んでいるはずである。
ペアルックは論外にせよ
自分と同じ洋服を着ている人と一緒に歩けるだろうか?
理想はあれど
自分と違わないものに心惹かれることなどあり得るのだろうか。
人間の脳には「馴化」という機能がある。
繰り返されて習慣化されるものに対して「究極的に慣れていく」ことを指す。
自らの子孫を残す相手として
DNAレベルで人間は異性に(そうでないケースもあるが)「好意」を抱く。
極端に言えば「自分のものにしたくて仕方がなくなる」のである。
故に恋愛は人類にとって究極の出来事であり
その為にだけに命は繰り返し生まれ繋がり続けている。
倫理だとか哲学だとか社会的なんちゃらだとか。
そんなもんは全て後付けであって
基本的に他の動物たちと基本的構造や成り立ちは寸分違わないのである。
繰り返しになるが
人間の脳には「馴化」という機能がある。
繰り返されて習慣化されるものに対して「究極的に慣れていく」ことを指す。
つまり。
性格的な問題だとか素行的な問題だとか
人間的な脆弱性をもってあたかもそれらしく
「糸を切ってしまう状態」をごまかして表現してはいるが
単純に「慣れて」しまって「外的刺激」が薄まることによって
猟奇的欲求が希薄化することによる極自然的な結果なんだと推測できるのである。
離婚することが自然と言いたいわけではない。
生物学的機能が存在していることを認知することが大切であり
それを超える
「愛情を実感できる経験の記憶」が
脳の馴化を超えることもこれまた真実であることも伝えておきたい。
ようやく多様性を認め合う社会
「ダイバシティ―」という言葉を耳にするようになったが
違いを受容する力。
他人を受容する力。
今の日本にとって最も必要な力は一目瞭然である。
人間社会における
普遍的な「困難を生じる問題」は様々だが
根幹を絞るとすると「孤独」や「孤立」なんではなかろうか。
それゆえ某は「幸福」の対義語は「孤独」と表現する。
そんなケースであっても
生きること・生き続けることに困難を生じている人々に
共通して垣間見れるのは「極孤立状態」である。
人と繋がっていないと脱落的に感じてしまう瞬間が
一日の中で一定時間経験すると
人は自分から出ているあらゆる糸の確認作業を貪るように始める。
そして
それが繋がっているかどうかを確かめるために
必要以上にその糸を強く引っ張るのである。
「私の話を聴いて」「私の事だけをみて」「私の事だけを考えて」
心の声であればあるほど
それは強く引かれ続ける。
それに嫌気がさして
その糸の張りから逃れるために
人は糸を切るのである。
子どもから愛情の糸を切ることはない。
当然のことであることがわかる。
理由がわかっている方が間違いなく切ることが可能であるからである。
一度切られた糸を結ぶことは容易いことではない。
しかし「親子の糸」を除いて。
他人同士としての「違い」は
決して一点に交わることはないと思う。
自分以外は全て他人なのだから。
例外があるとすれば
それは親子という関係性だけではなかろうか。
親子であろうと
一人一人の人格は存在する。そこを尊重しあう必要もある。
しかしだ。
親子だけは一度切れた糸であっても
結び直すことは必ずできる。
唯一利害関係を持たない「他人」であるから。
長く困難を抱く親子と接してきた経験から
共通したいくつかのパターンを理解するようになった。
その一つに
親子間の愛情の糸は間違いなく親の方から一度切っているということだ。
そして
間違いなく子どもはその糸を一生懸命結び直そうと努力を続けている。
様々なメッセージを出しながら。
それに気づきながらも
切った当の本人は切れていることも気付かないし
故に結び直す行動に移せない。
簡単である。
切った方から結び直せばいいのである。
難しいことは何もない。
今一度。
自分の子どもがこの世に生まれたあの瞬間へ立ち返ればいい。
自分がいなければ
瞬時に命が絶たれてしまう未完全な状態で生まれてきたあの瞬間へ。
「子どもの気持ちがわからない」
「あの子が何を考えているのか怖いのです」
よく聞く言葉だが
これも正直な気持ちであることは理解できる。
自分だった子どもが
自我形成と共に「他人」へと成長していくことについていけないのは
親の方である。
だとすれば
あの日を思い返しながら
ここまでちゃんと成長し生き続けてきたわが子を
正面から受け止めてみればいい。
糸の結び方は
そんなに難しくはない。
難しくしているのは間違いなく大人のエゴであるのだから。
先日。
7日間の短い人生を閉じたわが子に
誕生を楽しみにして事前に買ってあった洋服を着せる母親の背中を見守った。
その洋服が着れなくなるであろう当たり前の成長を
その親子は経験することが出来ない。
どんなに困難であっても
いままでどれだけの洋服が着れなくなっていく成長があったのか。
思い返すことが出来れば
ここまで大きくなってくれたことがどれだけの奇跡の連続で
どれだけ感謝すべきことなのかを考えられたら。
糸なんて簡単に結べるはずだ。