週末。
某は基本的に病院という白い箱の中に缶詰になる。
朝から日が暮れるまで
大体一日20組40人ぐらいの子どもと親と面談する。
困っているから病院に来る訳だが
「疾患」ではない。
生き苦しんでいる「状態」である。
その状態を少しでも好転させるために
某たちは存在している。
そんな生活を早いもので14年もやってる。毎週だ。
そして毎年この時期が一番の繁忙期となる。
9月1日が来るからだ。
学校に行きながら苦しんでいる子も
学校に行けない状態になって苦しんでいる子も
どんな子どもも新学期開始は意識する。
純粋無垢だけに残酷なのも「子ども」たる所以。
夏休み中に抱えたストレスを
誰かを攻撃することで解消したい衝動や
暫く離れ離れだった集団が再開する際に
なんとか集団内でのイニシアティブを握りたい衝動によって
誰かを狙う。
インターネットとスマートフォンの普遍化によって
この衝動が恐ろしいほど社会に簡単に侵食するようになってしまった。
あるアンケートでは
子どもたちは心底「電話」を嫌うらしい。
アナログな人との繋がりに何らかの恐怖を抱いている証拠だ。
追い込まれたとき。
動物は防御と攻撃に出るのは自然だ。
外的刺激が最小限である
「メール」「ライン」「メッセンジャー」などのSNSを駆使して
アナログでは到底アウトプットできないような
脆弱な人間性を露呈しまくっている。
傷つける方もそこまで真剣ではないは
傷つく方は心底傷つく。
傷つけている実感を抱くと人はフィードバックに苦しみ
やがて傷つけることに拒否感を持ち「反省」する。
しかし
SNSは傷つけている実感がない。
だから次から次へと動物的衝動性が前に前に進むのだ。
そんな「社会的状態」を生み出したのは「大人」たちだ。
某も含めて。
そして犠牲になっているのは「子ども」たちだ。
なのに社会は「子どもたち自身」に解決を求める。
「困ったら相談してね」
「苦しかったら頼っていいんだよ」
選択肢もない
行動する力もお金もない
子どもたちは守られてはいるが
何も持っていないのである。
なのに「助け」さえも自らしなければならないと迫られる。
学校。
行けたら行けばいい。
いけない理由があって
その理由が自分の力ではどうにもならなかったら
行かなくていい。
心身共にボロボロになってでも
這いつくばっていくだけの「価値」が
そこにあるとは到底思えない。
今後続くであろう人生を全て捨ててしまう程
「価値」があるものだとは到底思えない。
子どもたちにはその「窮地」を打開できる術がない。
だったら。
その場から逃げてほしい。
その場に近寄らないでほしい。
そして
その選択すら奪われているのが子どもだとしたら。
親が全力で選択してあげてほしいのだ。
生きること。
生き延びること。
生き続けること。
最愛の子どもに対して
その選択を全力でしてあげて欲しいのだ。
子供の成長において
将来に不安を感じるのは
「子ども」を経験している親の方だと思う。
学校に行っていないと。
学力・学歴がないと。
社交性がないと。
青春の思い出がないと。
自らの経験と
同じ時間を共に生きている「社会」という集団から
発せられる
「これが定石」なんだ的情報によって
このままじゃこの子の将来は大変になる。
と思い込んでいる。
某も自分を振り返って思うが
親の価値観なんぞ
何の役に立つんだろうか。
その瞬間。
自らが自らの生きる道を決断するその日まで
何も持っていない子どもが
安心して
「生き続けられる」環境だけを
整えとけばいいんじゃないかと思うのである。
それが親の役目であり親の価値だ。
人間という生命体である以上。
いつかはこの鼓動は止まるのだ。
自分の意志ではなく
「寿命」を全うした証として止まるのだ。
自分では選べない。
細胞レベルで自らその鼓動を止めようとは決してしない。
だからその日が来るまで。
人は幸せを目指して生き続けるべきだと思う。
こんな道の途中で。
こんな景色の中で
こんな空の下で
こんな風の中で
こんな雨に打たれたままで
とてつもなく眩しく
楽しいことが待っているであろう
未来を捨てないでほしい。
生きるためなら闘うな。
生きるためなら全力で逃げろ。
生き続けるためなら
それはすべて「正義」だ。
9月1日。
この悪しき風潮を
某が生きている間に
「希望の日」に変えてみせる。
某と「無謀」を「夢望」に変えることが出来る仲間たちと。