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3月11日に。

あの日。
千葉の病院で
仕事中に今まで感じたことのない
揺れとそれに伴う
恐怖を感じた。

二日間。
病院から出られず
ようやく帰ろうと思っても
新幹線も動きだしたばかりで。

混雑した
上野駅のホームで
原発が爆発したと
騒ぎ出す人がいて
一時騒然となった。

なんとか奇跡的に
上田に戻ると
なにもなかったかのように
日常がそこにあった。

なんだか
憤りが収まらなかった。

火事で校舎を失った
ばかりだったこともあって
感情的になっていた。

すぐに
募金活動をはじめ
二週間後には
災害医療支援チームに
志願し南三陸町から
本吉町へと入った。

戦争を知らないそれがしだが
至るところで
火の手が上がり
自衛隊車両や
ヘリコプターしか見当たらない。
道路脇には
まだブルーシートを
かけられたままの
ご遺体が並んでいた光景は
戦場のようだった。

とことん無力さを
感じた一回目。

すぐに二度目の被災地入り。

更に
なにも出来ないことを
痛感した。

あのときは
必死だったのか
なんともなかったが
一年が過ぎたころから
うなされるようになった。

それがしなんぞ
外の人間だから
たいしたことない。

それでも
これだけあの光景に
苦しめられてる。

だから
最愛の人を喪った
遺族の方々の心中たるや…。

忘れたいとも思う。
正直
誰にも言えなかった。

でも
忘れてはならないと
強く誓うようになった。

外からでも
何かは出来るはずだ。

新橋駅で
久しぶりに
募金活動を見た。

震災孤児への
就学基金だという。

財布にあった
現金を全部いれた。
大した金額ではないけど
これが今のそれがしに
出来る精一杯の支援だから。

被災地に足を運ぶのもいい。
現地に雇用を創るのもいい。

両方出来ない外者は

被災地を
元被災地にする
子どもたちの明日にかけるしかない。

願わくば
あの日喪われた
全ての命を繋ぐ
「生きる」があって欲しい。

繋ぐのは
間違いなく子どもたちだ。

息子夫婦を津波で喪い
残された
2歳の孫娘が
何もわからず寄り添う
じいさんに

それがしは
「頑張ってね。ご飯食べてさ。」

と安易に言葉を投げた。

寝たきりだった
じいさんは
瞳をカッと開き
それがしの腕を掴んで
こういった。

「俺が見えないか?
寝たきりの老いぼれに
親亡くした孫が残され
街は海にとられた。
この俺に何を頑張れって
お前は言うんだ?」

何も言えなくなった。

そうだよなって。

だから
頑張れって
使わなくなった。

火事のあと。
ある心友はそれがしに

頑張ろうね。

とメールを送ってきた。

あの一言で
どれだけ救われたか。

被災地の方々が
怖がっていたのは
「忘れられる」ことだった。

だから
「知る支援」と題して
「ガレキとラジオ」という
ドキュメンタリー映画を支援した。

頑張ろうねが
伝わる作品だったから。

頑張ろうねは
一人にしない。
頑張ろうねは
孤独にしない。

側にいなくても
繋がってることを
伝える言葉。

それがしたちも
自分たちのステージで
頑張ることを誓う。

そして
被災地の方々の
幸せを切に祈る。

子どもたちがいつか
もっと素晴らしい
故郷を創ることを願って。

あの子も
今年の春。
小学校に入学するはずだ。

願わくば
誰かにお祝いしてもらえることを
切に願う。

あの日。
突然奪われた
全ての命に
心からご冥福を。

それがしたちは
忘れてはならない。

そして
学ばなければならない。  

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