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第四弾 投げる事そのことに価値があり、投げた回数とその距離だけに価値がある

桜前線の北上と共に

あちらこちらで「新生活」開始の鐘が鳴っている。

昨年までの反省を踏まえ

新たな気持ちで心躍る人もいれば

「また始まったか…。」とどんより心を垂れる人もいる。

 

人々の心の中に生まれる「不満」や「不安」は千差万別。

しかし共通しているのは

その原因に「他人」が存在していることである。

「他人」とは「自分以外の全てのもの」を想定する。

 

人間は生物学的にも「単独行動」が出来ない種族であるからして

その「他人」との関わりを営みとしていく必要がある。

その「関わり」に人々は苦しみ、不安を孕み、更には

他人との接触を拒絶するにまで至る。

 

ナガオカが思うに

他人との接触を完全に拒否できるものなどいない。

ひきこもり状態など

状態的に他人との接触をせずに社会参加しないことが可能であったとしても

「誰か」がその状態を保障しているに過ぎない。

つまり守られている環境でなければ

他人との拒絶などありえないということになる。

ということは「誰か」とは関わっていることになる。

万が一それが出来るとすれば

未開発の山奥、はたまた離島のジャングルの中で

たった一人で生活し生き延びることを選択した場合である。

この国で生きている以上

それは到底あり得ないしもしできたとすれば

それはもう悟りの境地であるからして

他人との拒絶などというレベルの話ではないんだと思う。

 

だから

「他人」との関わりは

空気を吸いエネルギーを摂取することと同じ「原則価値」なのである。

その際に生じる「コミュニケーション」の手段によって

人々は一喜一憂する。

様々なコミュニケーションのカタチがあると思うが

どう考えても「言語」によるコミュニケーションが9割だろう。

(ハンディキャップを抱えている方々はこれに相当しないことを断っておく)

このコミュニケーションの成立の仕方で

心の中の「快」と「不快」は生まれてくる。

限られている時間の中で、心=脳の状態がいかに「快」でいられるかが

人間の「幸福状態」を左右する。

だからこそ

「コミュニケーションが重要」だとか

「コミュニケーションが苦手」だとか

「コミュニケーションが原因で」だとか

大概の生活上の問題はこの類の言語で説明がついてしまうのだと思う。

 

人様の生き苦しさの吐露をレシーブし続けて17年。

これだけの年月と

数えるのもいささか抵抗のある「ケース数」をこなしていれば

平均を下回る能力の某であっても

困難に陥るいくつかの思考習慣のパターンが見えてくるものである。

 

その一つに

「どこに価値をもって相手に言葉を投げているのか」というのがある。
①「相手にストライクを投げ相手もしっかりとキャッチしてくれることに価値があり

その際 相手からの返球もストライクであることが望ましい」

②「投げる事そのことに価値があり

投げた回数とその距離だけに価値がある」

 

シンプルに分けるとこの二つのパターンが顕在化する。

そして

生き苦しさを吐露する人々の10割が

①の思考習慣を持っているのである。

 

しかし単純に考えてみてもだ
①の成功確率は多く見積もっても3割。

プロ野球選手は平均130キロを超える人の投げる球を

バットで打つことに長けている能力の持ち主である。

そのプロ野球選手であっても平均打率は3割を下回る。

そもそもコミュニケーションのプロなど存在しないわけだから

素人が自らの能力で成功できる確立など容易に想定できるはずだ。

にも拘らず

①に価値を持ち続け、投げ続けるからこそ生まれる結果は

8割失敗なのである。

その人間の能力の問題ではない。ある意味「確率の問題」である。

「人の気持ちが分からない」

「人は自分を理解してくれない」

「人との関わりかたが難しい」

「そもそも他人が苦手」

これらの思考は間違いなく上記の結果から導き出された思考である。

当然と言えば当然。

なのに「何故?」と自問自答し

それでも①のパターンから思考習慣を変えることは決してしないのである。

②の場合。

投げる事そのものに価値があるからして

その成功確率は10割。

「自分の気持ちを言えた」

「相手の考えを受け入れることが出来た」

「沢山の人々と話が出来た」

「勢いに乗って深い話まで出来てしまった。」

 

例え

自分の考えが相手に受け入れなかったとしても

話しかけてもそっけない態度をとられたとしても

とんでもない大暴投が飛んできたとしても

 

言葉を投げかけることに価値さえ置いておけば

心=脳は

失敗における「不快」を回避することが出来るのである。

コミュニケーションにまつわる思考習慣のパターンは

無数に存在してはいるが

ここに上げた一つのパターンを自分に照らし合わせただけでも

自分に生まれる不快感の「源」を見つけることはできるのではないだろうか。

 

自分も含めて

社会にはコミュニケーション素人がうじゃうじゃいるのだ。

そもそもその素人相手にボールを投げても

そう簡単にキャッチなどしてくれないことを知るべきである。

例えるならば

3歳の子どもに

大人がボールを投げても取れるはずがない。

取れなかった3歳児を責めるだろうか?

なんで取れないんだと罵倒するだろうか?

取れるまで投げ続けるんだろうか?

人々の生き苦しさはこれを続けていることに原因があると思えて仕方がない。

 

取れるはずもないから

柔らかいスポンジボールを用意し

至近距離から

ゆっくりふわっと投げてあげることに価値を持つ。

たまたま3歳児は取れる時もあるかもしれない。

その時は「ラッキー」なんだろうし相手に対しても寛容な気分になるだろう。

 

前作の出版から6年の歳月が流れた。

こんなことを書いている某自身。

世に出す文章が相手に受け取ってもらえるかどうかに価値を持ってしまったが故

新刊への欲動に繋がらなかったと分析している。

 

15年前に出版した初版本は

二刷の際に256ページの中の176ページに誤植や誤字脱字があった。

内容はともかく

投げることに価値があったからこそ

恐れもなくあんな駄作を世の中に出せたのだと

今頃になって気付くのである。

今年。もう一度だけ投げてみようと思っているナガオカだったりする。

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