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第五弾 人は集団の中でないと成長できない

人は集団の中でないと成長できない

 

「個性尊重」がこの国で叫ばれてからそれなりの時間が経過した。

 

「あなたはあなたのありのままでいい」

爆発的大ヒットとなったあの曲でも

何度も何度もそのフレーズは繰り返されている。

 

不登校状態にある子どもや

社会参加不全状態にある

「社会的弱者」に対してエール的に叫ばれ続けた

 

「ありのままでいい」。

 

某はとても違和感をもって耳にしていた。

 

反論されることを承知で

持論を述べさせてもらおうと思う。怖いけど。

(あくまであの名曲をどうこう言うつもりはないのであしからず)

 

ありのままでいい。

あなたはあなたの個性を大切にしていいのよ。

あなたの存在だけで十分なのよ。

 

確かにこの言葉で

「一旦」救われる人はいるだろうし

ライトに使われるのは何ら問題はない。

 

しかしちょっと意地悪に逆説的に考えると

 

「なんもしなくてもいい」になる。

 

細胞分裂を繰り返す「生命体」である人間にとって

現状維持は自然ではない。

前回の細胞分裂よりも

今回の細胞分裂の方がDNA伝達も含めた

「進化」は求められているはず。

 

この状態は良くないから

それに対する対策を考えた進化が

細胞レベルで行われていることは否定できないはず。

 

つまり

変化する必要はないが「進化」=「成長」は

人間にとって必要不可欠な営みなんだと思うのだ。

 

少なからず人間の営みの中には「不満」や「不安」は

生じているはず。つまり現状に100%満足して生きている人間などいないはずである。

「今のままで十分幸せよ」という達観したレベルは

今回は除外して続けさせてもらうが

 

特に自分自身の現状に対して

何らかの「不具合」を感じているはずなのである。

自己擁護が強い生き物でもあるので

言い訳を繰りかえしながら何となく不満や不安の原因は

自分以外にあると意味づけしたがる。

 

そんな弱っちい自分を助けてくれるのが

 

「ありのままでいい」だったりする。

 

不具合には理由がある。

まずはその理由に気付くこと。

そしてその原因は基本的に自分自身の言動にあるということを

認知した時。

 

初めて人は「努力」という行動に出るのである。

「努力」は現状を変えてくれる。それは間違いない。

しかし

自分自身の「進化」=「成長」の度合いを考えると

個人の取り組みだけでの変化は

なかなか成長に結びつかないのである。

 

最近接発達領域・ZPD(Zone of Proximal Development)

というレフ・ヴィゴツキーが提唱した概念がある。

 

このZPDは他者(=なかま)との関係において「あることができる(=わかる)」という行為の

水準ないしは領域のことである。

簡単に説明すると

①他者の助けなしにわかる(=やれる)ことと、

②他者の助けがなくてはできないことがあることを知っている。能力の事を指す。

 

人間は、自らが理解し、出来ることが確信できるものの中では

全く負荷がかかることがなく

精神的にも肉体的にも「成長」することはない。

 

故に

自分の不具合に対してしっかりと向き合うことは

この能力の高低に大きく影響されるの。

 

人間は

生まれながらにして

個性など存在してはいない。

 

外的刺激に対して

脳は反応を示すであろうが

その反応に意味づけをして想像したり想定したり

ましてやその感情を言語化するなんてことはありえない。

 

まずは

家族という「小さな集団内」において

他者(ここでは両親及び同居者を指す)から影響を受け

他者の言動を模倣しながら

個性を少しずつ形成していくのである。

 

成長につれて

家族という小さな集団にだけ関係性を持つことは難しくなり

更に大きな集団へと自らの身を進めていくのだ。

幼稚園や保育園

そして小学校から中学校。

 

単なる教育現場への進学ではなく

「大きな集団への突撃」なのである。

 

やがて

集団の中でZPDの概念が体験と共に成熟していくと

世にいう「社会性」は育まれ

同時に「個性」という「自我」が育ち始める。

 

この過程において「錯覚」と「誤解」を生みだす「死角」が存在する。

 

幼少期の子どもは

出来ないことの方が多い。

しかし大人は自らの経験が脳の領域を支配しているため

「できないのはおかしい」から子どもを評価してしまう。

 

この大人の「死角」が

子どもたちのZPDを脆弱にしていくのである。

 

子どもは、集団行動における模倣によって大人の指導のもとであるなら、

理解をもって自主的にすることのできることよりもはるかに多くのことをすることができると言われている。

しかし

干渉的欲動を抑えられない大人は

その能力を初めから刈り取ってしまうのだ。

 

その家族(親)が信じて止まない家庭内神話ともいえる文化にしがみつくと

 

「あの子と遊んじゃダメ」

「そんなことするといい子になれない。」

「あなたは私の言うことを聞いていれば間違いないの」

と干渉的管理に走る。

結果。

自分が何が出来るのかも分からず

みんなとなら出来るかもしれないという希望的思想まで枯渇する。

 

「自分がわからない。」

「何をしていいか分からない。」

 

参加不全を起こしている子ども・若者

そしてその家族からよく聞くキーワードである。

 

某はそれが不思議だとは思わない。

前述した概念から自然な状態だと思うのだ。

 

だとしたら。

やはり他者だけで形成された「集団の中」で

その能力を磨く以外ない。

 

自分の頭の中で繰り返される妄想や想像

そして

本やインターネットから膨大な情報を

一人で受容したとしても

個人の成長などあり得ないのである。

 

細胞レベルの要求に応えなければ

ストレスなど解消するはずがない。

 

人は成長したがっているのである。

そして

人は集団の中でないと

絶対に成長できないのである。

 

集団の中で成長を遂げ

一定のラインを超えた時に見えるもの。

 

それが本当の「個性」なんだと思う。

だから「ありのままでいい」はあり得ないのだ。

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