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Don’t think. feel #7

こんな時代になっても尚
人を殺めることが
正義になる愚行が起きる

人類は成長していないんですかね?

不肖ナガオカです

★★★

成長の定義

偏に人が成長を感ずるときに
何を基準にそれを定義するのか
何を持って成長とし
何を持って自分は停滞すると人間は感じるのか。

停滞に関しては
人は完全に感覚を麻痺させ
同時に感情を停止させることで自らの意識を飛ばすことができる。

しかし
それが集団の中であると
あたかも
それは停滞ではなく妨害であると錯覚する。

外的な出力が強ければ
それは攻撃となるが
外的な出力が微弱な場合は
相手からの攻撃を受けていると勘違いする。

自分がいなければ
世界は存在しないのにも関わらずである。
ゆえに
人間の人生は面白くおかしいのであると
今更ながら感じざるを得ない。

結局のところ
人は「集団の中でないと成長出来ない」生き物であるということ。
故に
他人との関わりに困難を抱え
その関わり方次第では
心の大きなダメージを受け
その深度によっては精神疾患へと傷口を広げる。
そこに至る事柄にも他人は存在し
同時にその状態から「脱する」にも他人は必要不可欠ということになる。

20年近く自立支援に関わってきての実感であるが
引きこもり状態で
家族以外、もしくは家族とのコミュニケーションが皆無の場合
100%成長変化はあり得ない。

傷ついた定点
動けなくなった定点
沈黙し始めた定点から
彼らを移動させることは不可能であると私は考えている。

過去の話になるが
自室引きこもり状態が10年になった青年への訪問支援開始して
彼に対面できたのは5年後のことであった。
その間。
ある意味彼は全く成長をしなかったと言える。
筆談で行われてきた私との会話の中の内容も
5年間ほとんど変化はなかったからだ。

変えることのできない過去に
思考のほとんどが奪われ
その過去に常に傷つけられ続けていた。

5年後。彼の自室の扉が開いた奇跡は
私という「他人」が強制的に彼や彼の家庭内に入り込むという
見方を変えればかなり「暴力的」な刺激行動がもたらしたに過ぎない。

何故奇跡と記したかというと
これが全ての訪問支援で起こるとは限らない
かなり不確定要素の高い支援行動であるからだ。

自らの経験で
訪問支援はできれば「避けたい」支援方法である。
故に
孤立化する前に
家族以外の「他人」と接触し続ける機会を奪わない努力が
全ての家庭に必要であると考えている。

成長の定義とは
その人間が
どれだけの他人と
どれだけの時間を共有したかで決まると言っても
過言ではない。

成長は人間に幸福感をもたらす。
故に
我々は「他人」の中で生きる必要があるのだ。

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